実相


 「真理」というものは米や、石鹸のように物質ではないのであって大生命の根本知でありますから、異常の時には神姿とも顕われ、敵弾をも近づけない楯となり砦ともなってはくださいますが、

そんなことが「真理」の本体ではない、それは仮現であり、神縁ある人の信仰を高める非常手段として神の方便知が神通現象として現われるのでありますが、「真理」というものが本当に尊いのは、そんなところにあるのではない。

われわれ自身が「真理」(神の子)であることが尊いのである。

 宇宙は全体で渾然とした一つでありますから、そういう必要なものを、なんでも与えられることが神

の摂理の糸にあやつられて自由自在に出て来るので、ここに個の力のわがままというような自由自在で

はなく、「全体のわれ」としての自由自在が体験されて、そこに無限の安心立命を得、なるほど「真理

のき力はありがたい」と解るのであります。

この「全体のわれとしての自由自在」ということが解らなければ一時は景気がよくとも結局は行き詰まってしまうのであります。

 われわれの生命力というものが与えれば与えるほど殖えるという奇現象を呈するのは、われわれの生命力はわれわれの肉体の中にだけはない。肉体の境を超えて流れている広大無辺な生命がわれわれの生命であるからであります。

われわれの肉体は井戸の框みたいなものである。それは実に広大無辺な地下水の流れの一個の出口たるにすぎないのであって、われわれの生命の本地は目に見える肉体の井戸の中にあるのではなく、むしろ眼に見えない無辺無限の地下水こそわれわれの生命なのであります。

無限無尽の生命につながるわれら

 この目に見えない無限無尽の生命の地下水―すべての地上の水が、地下水において一つに連なっているように、すべての生命は、目に見えない世界において一つにつながっているということはなんというすばらしい荘厳なことではありませんか。

このすばらしい荘厳な医大な生命の流れが、あらゆる目に見える事物の背後にあって、心の法則―すなわち「念のフィルムを通して、一切は形に化して顕れるという法則」にしたがって、いっさいの顕世の事物をこの世界に顕現しつつあるのであります。

光をさえぎる念のフィルムをかけたものには陰多き世界が現われる、いっそう透明なフィルムをかけたものにはいっそう光明多き世界があらわれる。

この世にはかくのごとくして光明と暗黒とがあらわれ、健不健があらわれ、幸不幸があらわれる。

しかしあらわれたもののうち、光明と、健康と、幸福とのみが実在であって、暗黒と、病気と、不幸とが実在でないのは、後者は、ただ陰多き念のフィルムにさえぎられて、光がそこに無い、実在がそこに無い、生命がそこに無いという消極的状態にすぎないのであります。

だから無いものは無いというほかはない、暗黒はこの世に無い、病気はこの世に無い、不幸はこの世に無い、この世に生命の水がないといってつぶやいているのは、みんな本当に生命の水がないのではなく、生命の井戸を掘らないからであります。

生命の井戸の水を深く掘れば掘るほど水は無限に湧いてくる。だから、生命が涸渇しているという状態―病気という状態、不幸という状態は本来無い、そこには実在が流れ込んで来ていないということ、すなわち実在がないー非実在だという消極的状態にすぎないのであります。

「腱鞘炎、ばね指」


手足の筋肉では、その片端のほうが、腱とよばれるひものように細い、丈夫 “すじ”になっていて、骨についています。

特に手の指を動かす腱は長く手首の手前から指先まで一五-二〇センチもあります。腱がなめらかに動くようにところどころで腱鞘という鞘に包まれています。

この腱鞘が炎症をおこして厚くなり、内腔が狭くなって、いわば摩擦が多く、腱の通りがわるくなった状態を腱鞘炎といいます。腱のある部位すべてにおこる可能性があります。

 ●女性に多い手の指の腱鞘炎同じ動作をくり返すタイピストとか、手仕事をする女性によく腱鞘炎がおこります。

指を曲げる腱におこると、指の曲げ伸ばしが痛く、動きにくく、力を入れてやっとぽきんと動く現象(ばね指)がおきることがあります。

● 急性期は安静第一、切開が必要なこともある。

しばらくの間、手指をなるべく使わず、安静にすることです。同時に、炎症を抑える古青神又は火山灰をぬってマッサージをします。

* 腱と腱鞘にEGを入れ、フリーラジカル・コクサッキーウイルス抜く