或る宗教家曰く

 病んでゐると云ふ病は本來ない、苦しんでゐると云ふ苦しみは本來ない。

 神の子には『難』の受けやうがなく、『苦』の受けやうがなく任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、すべてが惟神の法楽である。

斯の如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭ふ心もおのづから消え去ってしまひ、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本當の楽想を生じ、吾れが一變し、天地が一變し、人生はただ歡びの讃歌に満たされるのである。

實相は苦楽を超越する法楽であって、實相をもって苦もなく楽もないと云ふのは謬見である。汝らが『楽』と稱する『楽』は本當の『楽』ではないから、『楽』を求むれば必ず苦を生ずるのである。

五官のうちに、感覚の惑はしのうちに『楽』があるとするのは謬見である。五官の『楽しみ』はその本性決して『楽』に非ざるが故に『苦』に攣ずるのである。實相はかくの如き假相の苦楽を超越すれども、眞相の『楽』そのものである。

法悦そのものであり法楽そのものである。その『楽そのもの』が『常住の我』であって、これが『神の子』である。

『神の子』が『人間そのもの』であって、その外に『人間』はない。人間とは常楽を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不悩を言ひ、不壊を言ふ。肉體は『人間』ではない。人間の心の痕跡であり、足跡である。

破壊すべきものは人間ではない。

汝らよ、汝ら自身の不苦不悩無病の實相を見よ。

大調和の波動とは、実相の波動。苦も病もノイズのしわざ。