ヒマラヤ聖者の生活探究の要約

(スポールディング)
 わたしが一八九四年に極東を訪れた十一人の調査団の一員であったことを申し上げておきたい。
 三年半にわたる極東滞在中、わたしたちはヒマラヤの大師がた(1)に接触したのであが、大師がたはいろいろな記録書類の翻訳でわたしたちを援助して下さり、わたしたちの調査事業に非常に大きな貢献をして下さった。わたしたちが大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許して下さったおかげで、大師がたが偉大なる法則の働きを実証されるのを実際にこの目で見ることができた。

 五巻より成り、第一、第二、第三巻は、著者が見えざる導きのままに世界各地にわたる調査隊に参加した際インド、チベット等における稀有の体験をありのままに描いたものである。

それらは人間の本質、人間の能力、人生の意識、自然における人間の地位等に関する真理とその実証より成る。第四巻は大師がたの教えの数々を、著者自身が項目別にまとめたものである。

第五巻には、著者が乞われるままに米国各地を講演して廻った際の質疑応答のうち、代表的なものが集録されている。

 わたしたちの調査団には、科学的な物の見方をするように訓練を受けた現実主義的な者が十一人もいたし、叉わたしたちには生涯の大部分を調査事業に費してきたものである。

従って、どんなことでも十分な証明がない限り、そのまま鵜呑みにはしない習性となっていたし、叉どんなことでも「あたりまえ」とかたづけることも、決してしてこなっかたのである。

そのわれわれが、この調査旅行には徹底した懐疑的態度を持って出発し、徹底的な確信と回心とを得て帰国したのである。

この調査旅行中にわたしたちの受けた感動は極めて大きく団員の中には大師がたと同じみ業を為し同じ生涯が送れるよ うになるまでは、大師がたのもとに踏みとどまるという固い決意を以て、大師がたのもとに戻って行った者が三名も出た程である。

 それからわたしのいろいろな質問に答えて、師は鳥たちを呼び寄せること、空中を飛んでいる時でもその飛び方を指図できること、花や木でも本当にうなずくこと、野獣でも少しも恐れないで寄ってくること、小さい動物を襲って喰い殺し、あとの死体を奪い合って闘っていた二匹のジャッカル(山犬)を引き分けたこと等を話してくれた。その山犬など、師が近づいていくと闘いをやめて師のさしのべた両手の中に、すっかり信じ切った様子で首を入れて静かに食べ合ったそうである。

師は或る時、一匹の野獣の子をわたしに与えて、両手で抱いてごらんと言ったことがある。

 さて話をもとに戻して、エミール師はこう教える。「こういう風に動物でも支配できるのは、いつも五官で見ているような死すべき自我ではなく、あなた方のいう神、即ち内在の神、わたしを通して働き給う全能にして一なる神なのです。死をまぬがれぬ小我としてのわたしみずからでは、何事をも為し得ないのです。

 要約すれば、基本的には次のようになるであろう。

?人間の本質は宇宙の本質と同じである。

? 故に人間に無限の能力がひそんでいる。? この悟りと行(ぎょう)とによって、人はこの本来の無限の能力を開くことができる。? この能力が出た程度に応じて、自然の中にひそんでいる神秘な力をも発動することができる。? ?と?とによって人は超自然的現象、いわゆる“奇蹟”をおこすことができる。いいかえれば、人は真に自分自身と宇宙との主になることができる。

奇蹟
 大ざっぱにいって、奇蹟は次のように分けることができる。
?祈りや呪文(じゅもん)などによって人間を超越した存在((一)神格を得た種々の段階の神、(二)通力を得た種々の段階の善意ある人霊、(三)種々の種類及び段階の自然霊(最初より肉体を持つことなく、幽体のみの生命存在。人間とは別の進化系統に属する)および(四)様々の種類と段階の不良の霊)が干渉しておこす超常現象。

? 自然の中にひそむ神秘的な力を、➀に記した超自然的存在が発動しておこす現象。

? 人間自身が自分の中に潜在する能力をひき出して、(一)直接、或は前に記した(二)超越的存在の協力のもとに、自然の中の神秘力を発動して行なう超常現象である。

 本書の第一巻及び第二巻をお読みの方は、大体お分りのように、第一巻から第三巻迄は肉体の出現消滅が自由自在であったり、物質の無限供給、白色光線の威力、病気快癒、死者の蘇りなど殆んど奇蹟の連続であるが、しかし、その奇蹟とは私達の言うことで、彼等聖者達には、極めて平常の業であって、奇蹟ではない。

 それは真理である。真理であるから誰にでもできることは言うまでもないことで、同書でも聖者達の言として、これは誰にでもできることであるが、しかし、それは教わって覚えるものでなく、各自の修練によって、各自が習得すぜきものであると書かれている。

 即ち、それは霊力の出現によって可能となるのであって、霊力の出現には不断の行法の修練を必要とするのである。