往相還相

            五木寛之

「往相」とは、この世でいったん死ぬ、ということだ。そして「還相」とは、浄土から帰ってくることではなく、生まれかわることをいうのだと考える。

 つまり、これまでの人生をいっぺん捨てる、そして新しい歓びにみちた人生を再スタートする。

いったんリセットして生まれかわったように生き生きした人生を獲得することが「往相還相」のほんとうの意味だろう。

     地獄の門がいま開く

 闇が深さを増してきました。時代は「地獄」へ向かって、劇的に近づきつつあるようです。母親

の子殺し、無差別殺人はすでに衝撃的な事件ではありません。

 少し前の朝日新聞の一面のトップに、自殺者が十年連続で三万人を超えたという記事が載りました。その数事態もさすことながら、自殺が全国紙の一面にでてくるというのはじつに象徴的なことだと思います。

 そんな社会の構図の変化を表しているもののひとつが犯罪です。

少し前までの犯罪というのは、怨恨や貧困、社会的差別や愛憎のもつれなど、わりとはっきりした原因がありました。

しかし、現代では多くが「形而上的な犯罪」にかわってしまった。

 形而上的な犯罪というのは、貧しい人に生活保護を出すとか、恵まれない子供には学資を補助するなど形而下の対処によって解決できるようなものではありません。


もっと人間の心の奥深くに根ざしている事件です。

  「性的プロレタリアート」が増えていく

蟹工船」の時代は労働条件の劣悪さが問題でしたが、これからの日本では、恋人を持つ、結婚する、家庭を持つという、いままではごく普通だった人生の階段を上がれない人たちがたくさん出てくるはずです。

 集団でフィリピン辺りへ嫁探しに行く農村もありますが、それでも何人かグループで来てくれれば、わりとうまく地域に溶け込むこともあるそうです。
       
     心身一如という考え方
 内科的であれが外科的であれ、体に何らかの問題が生じたとき、それが心因性のものかどうかを追究するのが心療内科です。

また、特定の部位だけではなく、その人全体を見ることの大切さを考えたのがホリスティック医学です。

 病気を生理的な原因からだけ追究しようとする古いタイプの医師も中にはいますが、「心身一如」といって、心と身体が密接な関係にあることは、常識のある医師ならだれでも理解するようになりました。

   ・ バックス・アメリカーナの終焉
 
アメリカであれ中国であれ、アラブ資本やユダヤ資本であれ、そうした国家や民族の意思とは関係のない巨大な金融勢力によって、食糧から石油にいたるまで、国境を越えて自由に操作されているような時代です。

 その中で生きてゆく私たち人間は、ある意味では生殺与奪の権を握られてしまっている。どんなに個人が努力しても、どうにもならない限界があります。

 これまでもてはやされてきたアメリカ流のマネージメント手法や新しい金融工学は、本来は利益が出るはずがないところからでも、打出の小槌のように儲けをうむという幻想をつくりだしました。

その意味では、まさに躁の経済の頂点という感じがします。

金融工学のリーダーたちはノーベル賞を受賞し、ヘッジファンドが金融市場を席巻して、新しい未来を作りだすかのようにあつかわれてきました。

 しかし、サブプライムローンというやりかたは、弱者から利益をしぼりだす経済学、すなわち鬱的経済学の典型だという気がします。

 結局はそれが破綻して金融システムそのものがグチャグチャになっているわけですが、そもそも無理がある住宅ローンを請け負う保証会社があり、
それを格付けする会社があって、さらにリスクのある債券をミックスして新しい商品を作り、さも信用があるかのようにドレスアップして市場に流通させていったのです。


 サブプライムローンは、天才的な詐欺です。それが悪質なのは、最終的な尻ぬぐいを公的資金、つまり国民の税金でやらせることになる点です。

 それらがウイルスみたいに潜り込んだ証券や金融商品は、どれだけあるかさえ分からないといいます。

単品ならば債権処理ができても、サブプライムローンはいわば複合汚染ですから、「複合負債」による損失は、これくらいだとケリをつけたくても、おそらくダラダラと毎年ふえていくことでしょう。

 げんに、バングラデシュでは銀行家のムハマド・ユヌスが、働く意志と能力をもつ貧困層に低利の資金を無担保で貸し付ける融資を成功させています。ユヌスは二○○六年のノーベル平和賞を受賞しました。

     自分の体の声にしたがう

 仏教の一部では、人は四百四病を抱えて生まれてくる、と考えます。俗に病は八百八病といわれるように、人によって病気のあらわれ方も感じ方もさまざまでしょう。

    「カモメのジョナサン」
 ジョナサンというのは、群れを離れて苦労を重ねながら無限の空間の高みへと飛び去っていく一羽のかもめで、物語は成功譚として読まれています。

 世に生まれた以上は食べていけるだけで満足する生活ではいけない、より高みをめざせと叱咤激励するというジョナサンの姿勢は一つの考え方だと思いますし、

「なるほど」と思うところもたしかにあります。しかし、翻訳した当初から私自身は、つよい違和感をもっていて、いまだにそういう思考に対してはいささか批判的なのです。

「食べていけるだけ」「生きているだけ」というのは、そんなに価値のないことでしょうか。
 前に何度も書いたことですが、アイオワ大学の教授がこんな実験をしました。

 三十センチ四方、深さ五十六センチの木箱を作り、そこに砂だけ入れて一本のライ麦の苗を植える。

水だけで育てて三ヶ月後に箱から取りだして砂をすべて振るい落し、広がっている根の長さを計測してみたところ、根毛の先にある顕微鏡でしか見えないようなものまで全部合わせると、何と一万一二○○キロメートルもあったという。

 一本のライブ麦が砂の中から水だけ吸い上げ、六十日間を生きつづけるために、シベリヤ鉄道をはるかにこえるくらいの長さの根を張りめぐらせ、その命を支えていた。

 そう考えたら、その麦は色がさえないとか、穂が付いていないとか文句を言う気にはなれません。そこには生きつづけるというだけで、ものすごい努力があった。

 一本の麦でさえ、それくらいの根をみえないところまで張りめぐらせて必死で生きていることを思えば、私たち人間が今日一日を生きるということは、麦一本にくらべてじつに大きなこの体ですから、どのくらいの根を人間関係に、世の中に、宇宙に張りめぐらせていることか、

想像するだけで気が遠くなります。

 人間は水も空気も酸素も消費しているうえに、さらに精神的な絆も必要、孤独感を癒すことも必要、喜びも悲しみも必要です。
そうやって八方に見えない根を広げて生きている。

眠っている間でも免疫の体系は生きつづけて、体の中で働いて心臓を動かし、体を維持しているわけです。

 1日生きるだけでものすごいことをしている。人は生きているだけで偉大なことなのだと思います。

その人が貧しくて無名で、生き甲斐がないように思えても、1日、一ヶ月、一年、もし三十年も生きたとすれば、それだけでものすごい重みがあるのです。

    いかに生きるかを問わない

 人は何のために生きるか、いかに生きるべきか、西洋でも東洋でも、多くの思想家や哲学者がそう問いつづけてきました。

 しかし私は、生き方に上下などない、と思うようになりました。親鸞の考えでは、その人のやることはその人が背負った業に左右され、人殺しもすれば善行もするが、それは本人が悪いから、偉いからではないといいます。

 私の考えでは、悪人も善人もいるけれども、とりあえず生きているということで、人間は生まれた目的の大半は果たしている。

存在する、生存していくこと自体に意味があるのだ、と。