祈りは人間が神に振向くこと

 祈るとは、神に対して絶えず、「吾れを忘れ給うな」と警告するためではありません。人間の方が神を思い出すためなのです。

神に生かされている自覚を心または言葉に表わして宣べる事が命宣り(生命宣言)であります。神は吾々の本源であって全き渾てである。

そうすると吾々が求めなくとも吾々に必要なものは神は必ず与え給うに相違ない。では吾々が祈るというのは神の方へ振向いて見るという事です。

 先日、私が元町を歩いていますと幼い子供が親と一緒に町へ伴れだって来ている。その幼児が親に先立って興がって、ずんずん親よりも先に小走りに歩いて行く。

しかし時々返って見て親の顔を見て、この通り歩いて往っても好いのかということを親の表情で悟るのです―と私は思いました。
この振向いて見るというのが祈りだと。

        「久遠実相」
 久遠実相の世界というのは、神界、霊界というような意味ではありません。単に「実相の世界」といって宜しいのであります。

「久遠」というのは、生滅常なき現象世界に対して永遠不壊の実相世界を形容したのであります。
「実相世界」を霊界のことだと思う人がありますが、霊界というのは現象界の一部で霊魂の住む世界でありまして、底には迷える苦悶せる亡者の霊魂も居りますが、

「実相世界」とは神の創造り給うたままの完全さが今も永遠に続いている世界でありまして、この実相世界においてはあらゆるもの凡て至妙に、
あらゆるもの凡て完全に、一切のもの凡て神の無限智と無限愛と無限生命と無限能力とを体現しているのであります。