実相の完全さを現実化するには

 私たちの内部に宿っている“神”を通してその凡ゆる善きものを現象界に顕現せしめようと思ったならば、私たちの“人間心”を出来るだけ静かにし、凡ゆる疑いの心や、恐怖の心や憎しみの心や恨みの心を捨てるようにし、つまり雑音を少くして、ただひたすら神の御声を聴こうと心を澄まして、一心に神にうちまかせる気持になることが必要である。

その場合一心にことを相当自覚している筈の人であってさえも、常識に縛られている限りは、自己に宿る無限力の実現を常識の程度に限定してしまうのである。

常識は、人類の肉体意識の平均点ぐらいの自覚しかないのであるから、悟りは悟り、常識は常識と割り切って、行動は常識に従うと云うことになって、自分自身の行動を常識の程度に平凡化してしまうのである。

行動を常識の程度に平凡化する限り、如何に悟りの上で「人間は無限に完全である」と自覚していても、実際生活は、常識の程度に不完全になってしまうのである。

私たちは、常識の枠をどれほど超え得るかの程度に随って巨人となり超人(人以上の人)となることができるのである。

「今」既に完全なる実相を観よ

「今」が時である。「今」すでに実相(ほんとうのすがた。現象としてあらわれて見えるのは、コップに水を入れて箸をさしこむと、そのハシが折れて見えるように本当のすがたではない。

病気はウソのすがたである。ないものを有ると見ているのである)があるのである。

「今」あなたは健康なのである。今のほかに時はない。神があなたを既に健康に創ったのである。今健康なのである。

肉体を見るな。肉体は過去のあなたの念の産物でしかないのである。

あなたの真物を見よ。今ある実相を観よ。既に健康なる実相を観よ。

断じて「今」あると念ずるものは既に其処にあるのである。まだまだ現象にその完全さがあらわれないからとて悲観したり絶望してはならない。

現象はただ過去の想念の影である。それは過去の心のロケーションが今映写されているに過ぎない。しかし銀幕上に映写された光景は必ず過ぎ行き、必ず去るのである。

映画に「終」(ジ・エンド)のないものはない。一切の悪は必ず終りを告げる時が来るのである。
  ・・・・・・・・尊師