魂と神 スワミ・クリヤナンダ氏

 人びとが個を主張し、虚栄心にとあらわれて立ち上がるとき、同じように錯誤の嵐に掻きたてられた他者のエゴの波と激しくぶつかることになります。

 嵐のときの大波のように、うねり砕け、一瞬打ち負かしたかと思えば、次の瞬間打ち負かされるという葛藤と競争の狂気がどこまでも続くのです。

 嵐のときに海面が穏やかであるはずはありません。同様に人の心のなかで錯誤の嵐が荒れ狂っているかぎり、平和を見つけることはできません。そこにあるのは、ただ緊張と不安のみです。

 平和がおとずれるのは、嵐がしずまったときです。外側の自然であれ、内側の意識であれ同じです。マーヤの嵐が静まるとき、エゴの波もまた収まるのです。エゴが消えてゆくにつれて、心がなごみ、再び「永遠なる大霊」とのつながりを受け容れるのです。

 霊的に進化した人々はもはや互いに競うことがなくなります。かわりに、人間同士や自然や神との幸福な調和のもと、無邪気に喜々として過ごすのです」
「もし私たちが神の子であるなら、また神が私たちを愛しているなら、どうして私たちを苦しむがままにしているのですか?」

 あるとき、このよく訊かれる質問にヨガナンダが答えました。

「苦しみとは、この世が私たちにとって本当の家でないことを思い出させるためのものです。もしこれが私たちにとって完全な家であったなら、誰もよりよい世界を求めたりはしません。しかし、こんなに全てが不完全でも、実際には、ほんのわずかの人しか神を求めようとはしません!クリシュナによると、千人のうち一人いるかいないかなのです。

 生命の法則とはこうです。内側の真実との調和を失えば失うほど、ますます苦しむようになる。しかし、真実と調和すればするほど、ますます尽きることない喜びを感じるというものです。

たとえその身体が病で冒されてしまおうとも、ひとびとから嘲られ迫害されようとも、その人には何一つ影響を与えることはなくなります。この人生での想像もつかない出来事の連続のなかで、どんなときも至福に満たされ、内に住まう真我からぶれなくなるのです」

「ひとつの部屋が何千年ものあいだ闇に閉ざされていても、もし、ひとつの光が持ち込まれるなら、まさにその瞬間に闇は消え去ります。罪もまた同じです。闇を部屋から杖を振って追い出すようには、けっして罪を心から追い出すことはできません。
人は、幻想に夢中になって、かえって錯覚にとらわれた意識にますます強くしがみつくかもしれません。しかし、深い瞑想と献身によって、神の光を持ち込むなら、闇はあたかもそこにはなかったかのように消滅するのです」

「もしわたしに欲望がなくなれば、まったくやる気を失って、一種の機械のようになるのではないでしょうか?」聴衆の一人が質問しました。

 欲望をなくすということは、あなたからやる気を奪うことではありません。大違いです。神とともに過ごせば過ごすほど、神に仕えて感じる喜びも深くなるのです」

「おそれいりますが、もし私たちをこの世に結びつけて放さないものが、この世への欲望であるとするなら、自殺した人びとは、なぜ解放されないのですか?」とある弟子が質問しました。
「彼らがこの世に留まる欲望をもっていないのは明らかです。この世から逃れるための極端な方法にも、一理あるのではありませんか?」

 師はこのばかばかしい質問に、くすくす笑って答えました。

「しかし、そこには積極的な神への欲求がなければならないのです」 

自殺について、ヨガナンダは別の機会にも話しました。人生とは、無限意識に入っていくためにどうしても卒業しなければならない学校なのです。もし、あなたが無断で授業を抜けだしたとしても、人生の究極の授業の履修に必要とする回数分、あなたは何度も何度もここに帰ってこなければならないのです」

「セルフ・リアライゼーション(真我の覚醒=本当の自分を知る)とは、身体と心と魂のすべてで、あなたはす

でに神の王国そのものであることを知ること、その王国があなたにもたらされますようにと祈る必要などないと

いうこと、神の遍在とはあなたの遍在であること、そして、やるべきことは「知る」ということをただ深めるだ

けなのだ、と知ることなのです」