生命に対する純粋な考え方

 『大師方の生活』は生命そのものであり、道であり、この生命・道を大師方は生きておられるのであります。大師方は生命を実相(あり)のままに生きておられます。

生命とは唯一原理〔神〕の活動であって、その本源〔神〕から分けることも離すこともできないものである、というのが大師方の生に対する態度です。

大師方はこの原理に忠実に従って生命を生きておられ、かくして全ての人々にこの生命の原理に忠実に従って生きる様に身を以て道を示されているのであります。

大師方にとって生命は生存の一理論ではなく、現実の事実、始めなく終りなき事実なのです。各人は生き方に対するこのような純一な態度を持つ様にならなければならないのであって、その様な態度は叉生き方に対する純一の考え方からのみ生ずるのであります。

生命とは人間各個人を通じて表現される神である、云い換えれば叉、人間各個人は生命の顕現する最高最撰の径路である、と大師方は云っておられます。かくして生命は個々の人間を通して、その他の生物よりもいっそう精撰された一層完全な形態を取って表現されるのであります。


自己限定するな

 生命をあるがままに受け容れるならば、肉体は呼吸するところの生ける全一体となり生命をその最大限度まで表現する様になります。

それがそうなっていないのは、人間自身が生命に課している制約に原因があるのであって、自分からアノ手コノ手で制限をしているのです。併し本当の「手」はただ一つあるのみです。即ち生命を最大限度に表現することです。

寿命

 インド人が人間の寿命を七十歳と考えているのは、この年齢が人間の最大の業績をあげる時期だということです。
人間は七十歳にも成れば完熟すべきです。云い換えれば生命の真実義を最大限に悟得すべきです。

叉人間はこの完熟までの期間の五倍は長生きすべきである。

とも彼らは云っています。ところが西洋ではこの事が見失われています。

今即久遠

 イエスが、『生のさ中にありて汝ら死の中にあり』と云われたのは、人間は何時も死に直面しているものであると、人々に警告したのではなくて、人々が生きているには生きているが、生きていながらその中に死の状態があるのをご覧になって驚かれたことを云い現わされたのであります。

人は生命をその本来の在るがままに生き、本来の相(すがた)を受け容れさえすればよいのであって、それを年数や物質的標準で計る必要はないのです。

人間はこの真理を認めさえすれば、今此処において久遠の生命なのであります。生命は何か向うからやって来るものではなくて、実に今この瞬間にここに実在し、その中に人は生きているのです。然るに人々は過去や未来に生きようとして〔即ち持ち越し苦労や取り越し苦労をして〕今此処に実在している生命から自分自身を引き離しているのです。

過去はすでに死に、未来は久遠の今の中にのみ生まれます。無量寿全体が実にこの瞬間に働いており、何人でもこの生命の水を自由に飲む事ができるのです。

永遠に生きようと努力する必要すらありません。何故なら、いやしくも生きている以上は既に久遠の生命の中にあるからです。過去を忘れよ、己自身を未来に投入する試みを止めよ、故如何となれば、『今』のみが唯一真実の時なるが故である。あなたは『今』すでに久遠の中に在るのである。

生命は無限

 吾が国の科学者達は、人間の肉体が七十年以上も生きのびることは無いと云っています。

処が細胞は七年毎に完全に新しくなります。と云っても何も生命に限定を加えるのではありません。何故なら、生命は年数ではなくて周期で動くからであって、周期は限定することはできないものです。

周期には本来始まりもなく、終りもありません。それは自己完結の永遠の過程であり、周期を現じているもの自体の中で進行している永遠の更新過程であります。生命は七では終らないのです。

否、生命には終りはないのです。生命は永遠です。およそ存在しているもので生命を持たぬものはひとつもありません。

惑星も叉すべて生きているのであり、ありとあらゆるものには生命があり、岩にも生命があるのです。