究極の考え方


 素粒子や原子や分子を現實の形態に排列統合してそれを有機的組織にまで発展せしめた「内在の力」については知ることができないのである。

 日本的思惟に従うならば、日本人は「存在」の根元を神より発したものとしてこれを把える。

日本人には、「存在」はコト(事)であり、神はミコトであり、ミコトとは御言(みこと)であり、“言事不二”であり、みことを漢字にて表現するのに「命」(いのち)なる文字をもってする。存在の根本生命であるものは“ミコト”であることを直感的に知っていたのが日本民族なのである。

 基督教では、「はじめにコトバあり」と宣言したが、弘法大師は『大日經』にもとづいて、「聲字即實相」とは、事物の本質即ち實相はコトバであり文字であるということである。

コトバに表現し、文字に表現すれば、それは具體的事物になるから、具體的事物の本質即ち實相は結局「コトバ」であり、「文字」であるということを弘法大師は指摘したのである。

その直感力のすぐれたること、現代の唯物論者や、進歩的文化人のとうてい及ぶところではないのである。