イリュージョン

 英語にイリュージョンという単語がある。辞書で引くと、幻影、幻想、錯覚、思い違い、とある。幻想と錯覚とをまぜたような意味だ。

 これはなかなか都合のいい単語だ。そこで、本書では、これから、幻想あるいは錯覚のような場合、イリュージョンだ、ということにしよう。

 つまり、本書は「意識はイリュージョンのようなものだ」ということを述べるためのものだ、ということになる。したがって、読んでいただいた後で、意識とは、巧妙にできてはいるけれども、確かにイリュージョンのようなものだなあ、と感じていただければ幸いに思う。

 五蘊非我という言葉がある。
五蘊は、五つの心の働き、すなわち、色受想行識を表す。色は身体、受想行識は様々な心の作用なので、五蘊は身体と心の働きという意味だ。

したがって、私たちの身体と心の働きは、我(私たちの意識)のつかさとるところではない、という意味になる。

もちろん、他の解釈もあるのだが、非我説に従うと、以上のような解釈になるのだ。

 つまり、意識は行為の主体ではない、ということであり、私の主張―行為の主体は無意識の小びとたちの自立分散演算の側にあり、意識の側にはない―と全く同じだ。

 ただ、私の方は、苦行の末にそれを悟ったのではない。

様々な現代科学の結果として続々と得られている知見から考えると、意識は行為の主体というよりも、無意識下の結果を受動的に受け取って、それが我であるかのように勘違いしているイリュージョンだと考えた方が合理的であって、あらゆる知見のつじつまが合うということを、論理として説明しているのだ。
           ニヒリズム
 要するに現世はニヒルなのだ。いわゆる、ニヒリズムの思想そのものだ。

一度そう理解すると、世の中のすべてのことがらへの執着やこだわりから解き放たれ、楽になる感じがしないだろうか。これが悟りの境地だ。

 そう考えるとイリュージョンだとわかる。

 世の中に、根源的な「価値」などというものは存在しない。

価値とは、のっぺらぼうから生まれた人間が、勝手に作りあげた概念に過ぎない。ところ変われば価値は変わる。
もちろん、現代哲学はそれに気付いており、それがまさにニヒリズムだ。

 テレビのニュースを見ていると、最近、悲惨な事件が後を絶たない。コメンテーターは、尊い命を無駄にしてはいけない、と叫ぶ。

しかし、誤解を恐れずにいうと、やや違和感を覚える。人の命は、本来ある普遍的な属性として尊いわけではない。
現在からほんの少し時代をさかのぼれば、命が粗末にされていた時代だったのだ。絶対的な価値などない。尊いかどうかは、人が決めるものに過ぎない。

文化的文脈にしたがって、その社会がその社会の価値やルールを共有すべきなのだ。

コメンテーターはそう叫ぶべきなのだ。問題はそこにある。ニヒルな世の中だからこそ、価値について議論して、基準を明確にすべきなのだ。
話がそれだが、「価値」はイリュージョンだ。絶対に。
私はそう思う。もちろん、基本的な価値といわれる「真善美」だって、イリュージョンだ。

 もちろん、愛欲のことだけを言っているのではない。子どもを愛する気持ちとか、愛する人を守りたい気持ち、というのは人間的だと思われるかもしれないが、これらだって本能的なものなのだ。

それが証拠に、子どもを愛するときのような純粋でかけがえの無い感じのする愛情も、深い教養の結果湧き上がるものだったり、マズローの高次の欲求のように低次のものが満たさなければ出現しないようなものなのではなく、正常な人なら、誰でも単純に、力強く沸きあがってくる。

それに、自己維持と子孫繁栄のため、という生物学的理由により基本的には説明できてしまうことからも、本能的反射の一種に過ぎないことがわかる。

       幸福というイリュージョン

 生きる目標はなんだろうかと考えてみると、幸福であること、あるいは、幸福になることではないか、というところにたどり着く。他の目標もあるが、その目標のメタ目標は?と考えていくと、幸福にたどり着くのではないかと思う。しかし、究極の腎性目標である幸福だって、イリュージョンだ。


幸せになろうと思ってもなれない

 幸せについて考えるとき、重要な事は、そもそも、幸せになろうと思えばなれるとは限らないということだ。幸せか否かは主観的だ。

 「幸せだ〜」という感情は、簡単にはコントロールできない。要するに、そのようなクオリアが沸きあがってきた人は幸せで、沸きあがってこない人はそうではない、というだけのことなのだ。