仏教徒の目標となる「悟り」の要点には、三法印というものがある。

 一は「諸行無常」といわれるもので、時間・空間的にどんな事物も不動のものはなく、必ず生滅・変化するものである。

 二は「諸法無我」といい、空間・時間的にすべての事物は互いに関連し合いながら存在していると教えている。

 三は「涅槃寂静」で、変化して止まない自己や万物を固定視し(我見)、それに執着すること(煩悩)を止めれば、平安な悟りの境地(涅槃)が到来するというものである。
 この三法印存在論的に見れば、独立して固定された自我というものはないし、宇宙のあらゆる存在は本源的な実体はなく、そこには生滅を支配する厳密なカルマだけが在るとしている。これは量子力学が到達した「宇宙の法則」そのものといえるだろう。

 では「自己の意識が現実を創造し、客観的な事物は存在しない」という量子力学の結論はどうだろう。

 しかし深く掘り下げてみると、両者は決論的に同じことを述べていることが分かる。

 仏教では「空」を宇宙のすべてとするが、そうなら自分を含めたすべてのものは同じ空の産物で、自分と同一の存在体となる。そのように見れば、すべての事物(他人)も自分を愛するように愛することが出来ると説いているわけである。

 それゆえに仏教の大元である『大日経』では、宇宙の本体と自分を同一化させて「大我」としてとられることによって、それを肉体に限定された「小我」と対比させることによって自己に執着せず、「大我」に生きることが出来るというのである。
 次の教えは、もっと具体的である。

 仏教では「三界(現世)は唯心の所現」と表現し、この世の事象すべては『仮相の世界』だと教えている。

 つまり、この世の一切の現象は自分の心が造り出した「仮相の世界」で、自己の想念を変えることによって世の中(仮相の世界)の事象はいくらでも変えることができると教えているのである。

これは量子力学でいう「人の意識が現実を創造し、客観的な事物は存在しない」という結論そのものといえる。阿佐田氏がいう、想念によって□の牌が□に変わったという現象を、仏教も量子力学も否定していないのである。