人の意識で宇宙は無限に枝わかれする?・・4

「この世」のミステリーを集約した「波束の収縮」。

「この世」の実体は、われわれの意識とは無関係に形成されているのではなく、人間の精神と自覚そのものが「存在」を創り上げていたことになる。

こうした意味で量子力学は、まさに「悟りの哲学」である仏教と区別できなくなってきているのである。

 どうであろう。世界に冠たる著名な科学者やジャーナリストたちが、「霊界手記」を著したスウェデンボルグと同じことを言っていたのである。

 この世が科学の常識と異なっていると教えているのは、量子力学だけではない。

 マクロを追求する宇宙論をはじめ、遺伝子工学や人類考古学なども「この世」はわれわれの考えているような世界ではない。

私たちの身体(精神)を含む「この世」とは、もっともっと凄い世界だと繰り返し教えている。それは、多くの科学者たちの揺るぎない確信となりつつあるのだ。

 スウェデンボルグは、「あの世」からの思念パワーは「この世」よりも遥かに強烈だと述べている。
量子力学が「意識が現実を創造する」と結論したように、迷える死者の意識が写真のように現象として顕在化されるのである。

古今東西に伝承される幽霊譚も、同じ現象なのだろう。写真に見られるように、空虚と思われてきた「空間」には、多くの霊界レベル層が重なり合って存在しているものと思われる。

 皆さんが、お馴染みのパチンコ玉が一個ある。

全体は鋼鉄で、どこにもすき間など無いように見える。しかし実際はすき間だらけで、物質としての実体は十万分の一以下というのが現代科学の常識なのである。

 さらに追求すると、粒そのものもボヤけ揺らぎはじめ、個であると同時に波のようになって正確な存在位置や運動スピードも分からなくなってくる。

したがってあなたが存在しているバーチャル世界の中では、物質の究極的な実体は何もつかめず、結局は真の物質など存在しないと結論することになる。

 改めて、量子力学の体験と結論を思い出していただきたい。

 そこでは人が見る(牌を模る)という行為によって「波束の収縮」という現象が起こり、多様な確率という可能性の中から唯一の現実が出現してくるのである。

 ある人が行った確率計算によれば、麻雀で役満が上がれるのは人生に一、二回あればよいという。しかし現実に役満は確立計算の度合いを遥かに超えて、実に頻繁に出現する。

 一日に二回も上がったという人もいるし、私は何十回も体験している。このように人の思念エネルギーはミクロ界の量子現象を増幅し、定まった確率の度合いを大きく破っているのである。

 だからといって、伏せられた時の陰の変化(波束の収縮)の実態を知ろうとしても、絶対に不可能である。この世は、そうした秘密を人間に悟らせないという、絶対的な制約下に置かれているからである。

・「人の意識が現実を創造する」(人の思念エネルギーが目的の牌を確率の度合を超えて模る)という常識を超えた現象。

・ミクロにおける物質存在は、個であると同時に波(伏せられた牌全体は個々ではなく波として存在する)であるという現実。

・「シュレディンガーの猫」に見る、突如の「波動関数の崩壊」という現象。

・ 絵の具にたとえた、ミクロの物質は意識を有する(阿佐田氏の
いう○の雀が飛び去って、□に変わった)という不可思議な現象。

・ 人が「見る」(牌を模ることで多様な確率の波が収縮して一つの現象にまとまる)という行為によって生じる、瞬間的な「波束の収縮」。

・ どんな精密な検出器を用いても、その(ツキの)正体を絶対に人間に悟らせないこと。
 電子は霊魂にしか出来ないと思われている芸当を、なぜかやってしまう。量子力学の説明によれば、一個の電子が二つのスリットを通る時だけ瞬間的に波に変化して、二つのスリットを通った後で再び元の粒子に戻り、一個の電子としてスクリーンに記録されるとしか言えないのである。

 あなたは、東京と大阪に同時に存在できない。これは「この世」の存在の鉄則である。
 だが電子は、時間的にも空間的にも二つの場所を同時に占めることができるのである。 簡単にいえば、これが量子現象の謎である。

 観測されているときは個々の粒子だが、観測されるまでの間には存在するという可能性が波のようになって広がっているわけである。

シュレディンガーの猫」を遊技にしたともいえる麻雀の牌のたとえで言えば、外部から見ているときは個々として存在するが、伏せられた牌の個々の模様は陰では波のように広がって存在しているわけである。

 当時のボーアは、量子力学が行き着く哲学的な原理を懸命に模索しはじめていた。それはやがて「相補性の原理」というものに行き着いた。

「相補性の原理」といっても、訳文の問題かもしれないが「互いが補い合う」という意味にとると理解しにくい。
正確には、一方(運動スピード)を知ろうとする他方(位置)が不明確になるということで、互いに他方を排除するという逆の意味になる。

 ボーアは、どんな装置を使って実験を行うかという人の認識が非常に重要になり、それが決定的な意味をもつことに気付いた。

それによって「この世」の現実というものが決定されることになるからで、ここにボーアは「人の意識が、この世の現実を創造する!」とハッキリと言明したわけである。