調和の考えが第一

 われわれの実存そのものが一個の完全なる宇宙であって、われわれがあらゆる不調和や分離という観念を放ち去るならば、われわれの実存は完全なる調和を保ち乍ら働くのであります。

いつも調和という事を考えていると、お互いは原理[神]という斉一に立ち帰り、相互に一神となるのであります。その反面、われわれは調和からひどく外れたことを考えることもできるのであって、そうなると病気其の他思わしくない状態が出て来るわけです。

しかしそれはこちらが調和からはずれていることを物語るだけです。到る処、本当は完全なる調和があるのみだと、そればかり念じておれば、何ひつつわれわれの生活に不調和な状態が入り込んでくる筈はないのです。

何故なら、われわれが不変的宇宙原理に調和した関係の中で思ったり、云ったり、行ったりして波動を起すならば、不調和の現れるはずはないからです。

        調和の鍵−与えること

 不調和が現れてくる様になるのはわたしたちの方で、自分の身体のヴァイブレーション(波動)を下げるからです。わたしたちの方で、当然あるべき調和が現れてこれない様にしているのであって、その他に理由はありません。

完全な調和など出来ない相談だと思い込んでしまえば、調和をこそ祟めるべきはずのものが不調和を祟拝した事になります。

人間は本来は常に調和している、とイエスが教えられたのもこの事だったのです。イエスは大原理[神]のあの大調和のことを直接云われたのであって、実相においてはわれわれは常にこの大調和を顕現しているのです。

自分のほうからの奉仕はしないでいて、隣人から自分に直接に奉仕して貰おうというあの自分本位の利己的欲望をわれわれが棄てさえすれば、この大調和は顕現せずにはおれないのです。

われわれは、隣人からではなく上(神・大原理)から期待すべきであり、われわれの世の中に対する態度は、与えること、にあるべきです。


          神に近づく道

 調和から離れて自分を孤立させる一番手っ取り早い方法は、自分が人に奉仕をするのではなくて、自分への奉仕を人に要求することです。

相手が一個人であるか百万人もの人であるかは、この際問題ではありません。要するに自分への奉仕を人に要求したときには必ず神と人から分離してしまっている。

すべてに対して奉仕するときに、われわれは遍満するもの[神]の中に浸っているのであります。自分自身を与えれば与える程、われわれは自分が本来所属している遍満するもの[神]に次第に近づいて行くのであります。

 生命エネルギーの増減

 奉仕と、愛と調和とを与えることは肉体からエネルギーを取り出すことにはならないが、不調和、すなわち非和合の状態をもたらすこと、或は否定的な想念やコトバを出すことは自分の肉体からエネルギーを奪うことです。

積極的コトバや調和のコトバはわれわれがそれを出す毎にわれわれの肉体にエネルギーを加えるものです。
のみならずそのようなコトバを出す都度(つど)、われわれ自体がある力を創造しており、その力は或は放射エネルギーとともにわれわれに還流し、われわれを取り囲むのであります。